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2007年1月31日スタート (「´゚ω゚)「 アチョ- (「´゚ω゚)「 アチョ-
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何年か前に書いたエッセイです。ちょいと長いですが、気楽に読んでみてください。







 我が家では、誰が宣言するわけでもなく、食事の用意が出来ると皆が自然と居間に集まってくる。朝から必死で書いていた原稿の見通しがようやく立ったところで、食欲を掻き立てられる香りにつられて居間に行ってみると、そこには馬鹿でかい土鍋がデンとテーブルの上に居座っていた。そうか…。今日は土曜日。親父が家にいるんだっけ。

 親父が嫌いなわけじゃない。50歳直前まで勤めていた大手電機メーカーを辞め、祖父が作った中小企業を建て直すために群馬で孤軍奮闘している姿は、同じ男として尊敬するし、かっこよく思う。ただ、やっぱり幼い頃に植えつけられた記憶はなかなか消えてくれない。それどころか、時おり頭の中で細胞分裂を繰り返し、自分の精神を飲み込みそうになる。

 ガキの頃、僕は親父が大嫌いだった。

 1980年代後半。世はまさにバブル絶頂期。何億、何十億という土地やマンションが飛ぶように売れ、世の中の全てが金色の絵の具で塗りたくられていた狂時代。長男に対しての期待というものを何となく感じながら、僕は毎週3日、テストがある週は4日の塾通いを強いられていた。塾に行きたかったわけじゃないが、行きたくなかったわけでもない。成績が上がるのは楽しく、また様々な知識を得られるのは心地よい感覚であることを認識していたが、それよりも友達と一緒にいられるということが遊びたい盛りの少年には大きかったのだと思う。バスで通う渋谷の塾。傘が鬱陶しかった雨の日。バスが渋滞に巻き込まれて遅刻したけど、正直に言ったら普段は怖い先生が笑って許してくれた雪の日。興味の沸かない授業はつまらなかったけど、それでも僕は塾通いが楽しかった。

 テストは日曜日に隔週で行われた。2週間掛けて勉強した成果をテストは冷たく審査し、知識量が高まった生徒は1つ上のクラスへ、ワイワイ騒いでるだけのダメ生徒は1つ下のクラスへと落とされる。クラスの中ではテストの成績順に席が決まり、前の方のヤツは大抵、上のクラスからの落ち組だった。僕はというと、5つあるクラスの中の下から2番目の真ん中へんの席をキープしていたことが多かった。予習や復習というものを全く行わなかったので、成績が上がるはずもなかったが、それでも、皆と一緒にいる時間は楽しかった。たとえ塾のシステムがどんなに冷たくて残酷でも。

 だから、テストがある日曜日はまだ救われた。塾に行けばいいのだから。テストがない日曜日。それはもう、当時の僕にとっては何よりも嫌だった。「勉強でも始めるか」……悪魔の声で始まる地獄の数時間。冷房が全く効かないような夏の暑い日、手がかじかんで鉛筆が上手く握れない冬の寒い日。塾のテキストにはレベルの高い問題がズラリと並んでおり、そのほとんどの問題を解くのに僕はつまづいた。そして、その度に頬や頭に激痛が走った。今の世の中だったら確実にドメスティックバイオレンスとして問題になるであろう行為が、あの時、あの部屋では平然と行われていた。

 拳で。筆箱で。僕は殴られた。

 分からないと殴られる。殴られるのは嫌だから、必死で理解しようとする。だから親父に質問をする。でも、親父は決定的に説明下手だった。何故そうなるのかということをしつこく聞く内に親父の機嫌は徐々に悪くなり、話し掛けただけで手が飛んでくる。結果として、勉強どころではなくなる。問題の意味すら理解できないほどに、さっきまで解けていた問題が分からなくなるほどに、僕の心は混乱した。たまに勉強部屋に入ってくる母親は、心配そうな顔をするものの助けてくれるわけでもなく、目に溜めた涙を通して見るその顔はひどく歪んでいた。そして、真っ赤に目を晴らして勉強部屋から出てくる兄を、弟や妹は心配そうに見つめる。問題が分からないだけで殴られるという理不尽な状況に打ちひしがれた長男にとって、その視線はとても痛かった。辛かった。

 勉強の甲斐も虚しく、僕は中学受験に失敗した。学費を出してくれた親には申し訳ないが、志望校に受からなかった悔しさをほとんど感じなかったのは、多分、勉強からの解放感が勝っていたからだと思う。幸いなことに、僕の学年には僕と同じような受験の負け組が沢山おり、中学に進学すると塾で同じクラスだった仲間といっぱい再会できた。だから、中学は毎日が楽しかった。そこは地元の公立校ながら進学校としても名を馳せた学校だった。先生は曲者揃いで、叩き込まれる知識の量も多かった…にも関わらず、本当に毎日が楽しかった。小学校5年生のある夜、祖父に買ってもらったばかりの金属バットと殺意を胸にして親父の枕元に立ったことなど、遥か遠い過去のことにように思えるほど、毎日が充実していた。

 この頃から、親父の僕に対する態度が変わったように思う。親父は慶応大学を出て大手企業に入社したエリートだが、お世辞にも表現力があるとはいえず、他人にものを説明するのが大の苦手。だから、中学レベルの問題を僕に教えることに自信がなかったんだと思う。お陰で僕は自分から勉強しようという気が起こり、自分から進学塾へ行かせてほしいと母親に頼んだ。中学2年の終わりにもなって、僕はやっと勉強の楽しさに気付けた。

 中学受験の時に得た財産と進学塾で必死に勉強したことが幸いしたのかどうかは分からないが、僕は地元の都立高校に合格した。そこで沢山の仲間や恩師に出会い、それから数年後に僕は雑誌のスタッフとなるのだが…この頃には親父はすっかり丸くなっていた。祖父が他界し、相続税など様々な問題を解決しなければならなかったことも大きかったと思うが、単純に歳を重ねたせいもあると思う。

 以前は、それこそ食事中にお茶をこぼしただけで僕を殴り、ご飯を残しただけで僕を怒鳴っていた親父が、自らお茶をこぼし、ご飯を残すようになった。母親はやはり、何ともいえぬ表情で布巾を洗い、黙々と食卓を拭く。体の大きさも力も負ける気がしなかった当時の僕は、親父が食卓でへまをするたびに、何度殴ってやろうかと、何度怒鳴ってやろうかと思ったか分からない。

 でも、出来なかった。自分の意志で踏みとどまったというよりは、理性が勝手に手を止めた。声を遮った。

 人は変わるんだ。僕は漠然と、そんなことを感じていたのかもしれない。

 どうせ長続きしないだろうと親父は思っていたようだが、世間的に見れば決してまともな職業とはいえないパチスロ雑誌のライターという仕事を、僕は高校を出てすぐに始めた。原稿が上手く書けないことや先輩にイジめられることもあったが、どうにか乗り越えて今も僕はライターを続けている。近頃はようやく親父も僕を一人前と見てくれているようで、それは一人の男として素直に嬉しい。

 ただ、長年勤めてきた会社を数年前に辞め、祖父が経営していた会社を建て直すために群馬へと単身赴任している親父は、最近めっきり老けた。本人曰く、仕事はそこそこ楽しいらしいのだが、きっと内心は家族と一緒に居たいのだろうと僕は思っている。その証拠に、どんなに忙しくても週末には実家に帰ってきて、家族と一緒にメシを食う親父がいる。

 その食卓で、今日も親父はいつものようにご飯をポロポロとこぼし、みんなから笑われている。母親は、仕方ないねという表情をしながらニコニコと笑っている。弟も妹もケラケラと笑っている。ただ僕だけが辛かった少年時代を思い出し、少しだけの苦笑いを浮かべながら鍋をつついている。やはり僕は、週末が心からは好きになれないみたいだ。
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無題
なんと言ってよいのか…
ワタクシ小唄様のように
文章力もございませんのでこの気持ちぅまく表現出来ませんが
切ないです。+゚(゚´Д`゚)゚+。

アタシも中学受験失敗しました
d(`Д´)
おかげでこんなになってしまいましたが
こんな自分も結構好きです
(´艸`)♪

なんか 塾の制度も激似で
感情移入して読みますた!
JUNKEY(○´∀`)ノ゙ URL 2008/02/29(Fri)23:35:46 編集
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